弘栄貿易株式会社

KOHYEI history

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story

1911

ルーツは遥か海の彼方、
赤道直下の
旧オランダ領東印度に。

1911年、「川原商店」は旧オランダ領東印度セレベス島マカッサルに支店を設けた。貝ボタン用の高瀬貝、真珠貝、コパール、黒たん、籐などの南方物産を広く日本に販売するためである。続いてシンガポールで、生ゴムや天然樹脂などを扱い、その後、スラバヤ、ロンドン、ニューヨークと支店を拡大。アロー島では椰子園も経営していた。

1926

母体はシンガポールの地から、
「弘栄」のスタートは
海外拠点。

1926年、数度の変転を経て川原商店は国内のみに縮小、海外部門は独立し事業を継承することになる。当時南方総支配人であった上田弘剛氏はシンガポールに「弘栄商会」を設立、生ゴムその他物産の輸出を開始し実績を積む。しかし、太平洋戦争下では軍の指定商社となり、1945年、敗戦とともにシンガポール等からの引き上げを余儀なくされた。

1949

終戦後、それは被災を免れた
元町商船ビルの一室から
はじまる。

1949年、敗戦直後の混迷も落ち着いた頃、上田弘剛氏は知人であった槌橋秀彦との共同経営を企画、新たな貿易会社の立ち上げを持ちかける。槌橋氏は上田氏の構想を受け入れて初代社長となり、ここに弘栄貿易が誕生することになった。時は2月11日、資本金200万円、商船ビルの20坪程度の部屋から、ついに「弘栄貿易」の歴史の幕が開くこととなる。

1955

不安定な相場商品からの脱却、
商品を整理し、
合成ゴムを強化。

1955年、看板商品の天然ゴムは相場商品であり、日々価格が変動していた。ここで数年前から研究・輸入してきたデュポン社の合成ゴム「ネオプレン」も伸張してきたことから生ゴムの全廃に舵を切ることに。合成ゴム躍進に一役買ったのが、靴のゴム底や長靴など、神戸長田の履物業界だった。1957年には穀物の取り扱いも全廃し、業績の堅実化に向かって前進、翌年1958年で創立10周年を迎えていた。

1959

化学・薬品メーカー等と
代理店契約、
化成品専門商社として
地歩を築く。

1959年、電気絶縁塗料で有名なスケネクタディケミカルズ社と総代理店契約を締結、以降大手電線メーカー等への販路拡大のきっかけに。1961年、「ネオプレン」の販売代理店契約を締結、1963年には2代目社長として槌橋淳秀就任、1964年、住友化学工業と特約販売契約、1966年、武田薬品工業など、代理店契約を次々と結んでいくのだった。

1969

創立20周年を迎え
合弁事業に着手、
規模の拡大、経営の多角化へ。

1969年、モーター等の特殊絶縁塗料の需要が国内で増大、スケネクタディケミカル社の絶縁塗料の国産化を目的に、日本触媒化学工業と弘栄貿易との3社で合弁会社を設立した。1972年には、初の海外メーカーとの合弁事業契約を締結、日本ジッパーチュービング株式会社が誕生。直系の製造部門を持つという永年の念願が叶った瞬間であった。

1973

オイルショックにも関わらず、
年商は100億円の大台に乗る。

1973年、10月頃から始まったオイルショックによる影響は少なからず、不足する商品の確保や御得意先への振り分け等苦労も多く、価格高騰にも成すすべなく高値で納入することに。終わってみれば売上は前年比22%増であった。さらに、早くもコンピューターを販売管理等に導入。これにより、大幅な会計事務の省力化、即時性が計られた。

1979

各部門の将来性を考えた活動、
効率化に向けての動きを加速。

1979年、創立30周年。1981年、年商200億円達成。米国バーネイラボラトリーズ社との合弁会社を設立、現弘栄興産(株)として加工部門の機能を発揮。1987年本社営業部を大阪に移し阪神営業部を統一。1988年工業用ゴム、樹脂製品の製造等、(有)弘栄工販を設立、将来の生産部門としての目的を持たせた。同年IBM社のコンピュータシステムを本格導入。

1989

制度や意識の改革、人材登用など
逆境に耐え、体質の強化を図る。

1989年、河野秀夫、3代目社長に就任、創立40周年を迎える。1991年、年商328億円の売上を記録するもバブル経済が崩壊。さらに1995年、阪神淡路大震災で本社入居ビルが倒壊、現在地に移転。危機に際し、社内制度改変や企業風土の変革、業務合理化まで、体質強化策を実施し、三菱銀行から招いた白井紀行が1996年、4代目社長に就任、1999年、創立50周年を迎えた。

1990

バブル崩壊から夜明けへ。
次世代へ繋ぐリーダーの意志。

1990年、元バンドマンの槌橋貴彦は、叔父である槌橋淳秀に拾われ、20代で新入社員となった。入社したものの、それまでの経験が生かせずに悩み、辞める決意で会長室のドアを叩く。しかし会長から私の意志を継いで欲しいと言われ、養子縁組を経て息子に。サービス業としての商社のあり方を受け継ぐべく、翌年には取締役、そしてついに32歳で社長に就任。同時に人事の刷新、組織改革に着手した。

2002

新たなる挑戦のはじまり、
「超二流」を掲げ、
第二創業期へ。

2002年、槌橋貴彦、5代目社長に就任。「超二流」を打ち出し、成功するまでユーザーに向き合う姿勢を示す。2008年リーマンショックを越え、2009年、創立60周年、100年に1度の不況に立ち向かい経費削減を実行。さらに、中国、香港、台湾、タイ、インドネシア、インドに法人を設立、商材の現地調達や海外進出のサポートなど幅広く海外事業を展開し、グローバルなネットワークを構築していく。

100周年に向かい、
グループシナジーの最大化で
課題解決を目指す。

2017年、小原化学塗料株式会社をグループ会社とし、2023年には製造部門の中枢、日本ジッパーチュービング株式会社の工場を新設。2024年、75周年を迎え、樹脂成形機器を扱う株式会社micro-AMSのようなスタートアップ企業のグループインも含め、多岐にわたる商材やメーカー・物流機能も含めた総合力で対応。さらに、化学品のデータベースシステムのサブスクを提供するなど、時代の「モノ消費からコト消費」へのシフトを踏まえ、目下躍進中である。